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千坂恭二論文の誤読を巡る個人的な闘い

発端

千坂恭二は『バクーニンクロポトキン アナキズムマルクス主義者の対立史観の由来について』という論文で以下のように書いている。

 

議会政治への模索を図った第二インターの主導権を握ったマルクス主義者は、反議会の暴力主義路線のバクーニンの後継者たちを排除し、一方、排除されたバクーニンの後継者たちは、第一インターでの多数派だったという自己認識からマルクス主義者という政治屋たちのインターとは異なる革命的なインターを形成したのだった(所謂「黒色インター」)」。(千坂,2009,p.103)

 


この後に、「アナキズム」という主義と「マルクス主義」というイズムの出自の由来が語られる。とても重要な指摘なのだが、しかしそれは本論の趣旨ではない(卒論で書いている)。

この文章を一読すると「ああ、第二インターマルクス主義者たちはバクーニンの後継者たちを排除して、それに反発する形でバクーニンの後継者たちは黒色インターを結成するのだな」と読める。

 

参考文献①

しかし、ジョージ・ウドコックは『アナキズム(思想篇)』において、以下のように述べている。

 

一八七二年から一八八一年のかの有名な“黒色インタナショナル“会議に至るまでは、彼らは純粋なアナキストのインタナショナルを作ろうとし、この衝動は、一八八〇年代と一八九〇年代初期に開かれた一連のあまり成功とはいえぬ会議を通じて、弱まりつつも持続した。(Woodcook,1962,白井訳,1968,p.2)

 


これを私は「ああ、“黒色インタナショナル会議“は1872年から1881年まで続いたのね」と読んだ。また、1880年代と1890年代初期に開かれた〜というのは第二インターで排除されつつなんとかやってきたということへの言及なのかな、とも思った。

 

参考文献②

さらに、『バクーニン著作集』第1巻の巻末にある「ミハイロ・アレクサンドロヴィチ・バクーニン年表」を参照する。この年表の一八七二年(五八歳)の欄、末尾にはこう書いてある。

 

インターナショナルのハーグ大会開かれ、マルクスバクーニンの「同盟」とネチャーエフ事件について報告。バクーニンとギヨームの除名を決議。(後略)

バクーニン派を糾合し、サン=ティミエにもう一つのインターナショナル大会を開く。ハーグ大会の諸決議を否認。(左近,1973,p296)

 

疑問

ここで一つの疑問が湧いてくる。「黒色インターはいつの時代にできたのか」

 


ここで、私が先日より作成している19世紀の社会運動有名人の手書き略年表を参照しよう。

f:id:culbun:20201205225745p:image

 

 


千坂論文は、黒色インターは、第二インター、つまり1889年にマルクス主義者から排除されたあとにバクーニンの後継者が作ったものであると読める(実際、第二インターからアナキストが排除されたという史実はある)。

ウドコックは、黒色インターが1872年、つまり第一インターの最中に作られたものだと説明している(ように読める)。そして、それを裏付けるようにバクーニン年表」でバクーニンは1872年にもう一つのインターナショナルを開いている。

ここに矛盾が生じる。

黒色インターは、1889年の第二インターの時にできたのか(千坂論文)、それとも、1872年のハーグ大会でバクーニン派が除名されて以降にできたのか(ウドコック、バクーニン著作集)。

 

混乱


当初は千坂論文が間違っているのではないかと思い、千坂さんに質問のリプライを飛ばそうかと考えた。しかし、文章を書いてものを食べている(多分)人に無料で質問をしようというのはおこがましいのではないかという意識と、もしかしたら私が間違っているのではないかという意識が働き、ためらいを覚えた。

そこで、近くにいた人に事の成り行きを説明してみることにした。説明することにより、私の理解の再確認と、誤解の指摘を狙ったのである。

人はこう指摘した。

「(ウドコックの)「かの有名な“黒色インタナショナル“会議」って、1872年から1881年まで継続したものではないのではないか」

確かに盲点だった。少なくとも第一インターは、組織体としてはあるものの、なにか運動をするというより、インテリたちが派閥を作って会議をしている組織という側面があったので、黒色インターもそういうものだと思い込んでいた。

 

 

参考文献③


ここで、W.Z.フォスターが執筆した『国際社会主義運動史』を参照する。フォスターはアメリ共産党を再建した存在である。ウドコックもバクーニン著作集も、アナキズム「側」の書籍なので、明確にマルクス主義派の人間(本文にはバクーニンのことを、明らかに不当ではと思われる程度の批判もある)が書いた文章を参考にしようと考えた。

 

ハーグ大会は、インタナショナル内部で分裂活動をおこなったという理由で、バクーニンその他の無政府主義者の除名を決定した。しかしバクーニン主義者はこの大会決定の承認を拒否した。それどころか、これらの決定やニューヨーク移転によって、国際労働者協会(第一インター:引用者注)事実上解散したのだと声明し、ただちに自分たち自身の組織を作ることに着手して、事実上はこれこそほんとうの国際労働者協会なのだと主張した。したがってその後数年のあいだは、二つのインタナショナルが存在し、ともに同じ名称をもち、ともに世界の労働者代表だと称していたのである。(Foster,1955,長洲訳,1956,p112上段)

一八七二年九月のハーグでの国際労働者協会第五回終了から数日たって、反対派の無政府主義勢力はスイスのサン・ティミエで大会を開いた。(中略)これだけの人々が大会にあつまり、自分たちこそインタナショナルだと主張し、インタナショナルの名で行動した。(同上下段)

バクーニン主義のインタナショナルがほんとうに生きていたのは、一八七二年から七七年までであった。(中略)彼らの公式機関紙『ジュラ連合会報』の最後の号は、一八七八年三月一五日に出た。(同上,p114上段)

一八八一年七月に、無政府主義者はロンドンの大会で、自分たちの仕事を国際的に復活させるために大きな努力をはらった。この結果できたのが、いわゆる「黒色インターナショナル」〔後出の国際労働民衆協会〕である。(同上下段)


謎は全て解決した。

結論からいうと、9割が私の誤読と歴史知識の欠如、1割が筆者の書き方の問題であった。

 

解決と解釈


まず、ウドコックの方から解説する。

ウドコックは「一八七二年から一八八一年のかの有名な“黒色インタナショナル“会議に至るまで」という文章を、前述の通り、“黒色インタナショナル“会議が1872年から1881年までの間行われている(第一インターのような)組織だと誤読していた。しかし、それは間違いで、「一八七二年から」のあとに読点を入れて、「(第一インターのハーグ大会でバクーニンらが除名された)一八七二年から、/一八八一年の(に開催された)かの有名な“黒色インタナショナル“会議に至るまで」と読むべきであった。

 

そして問題は千坂論文である。再確認すると、以下の文章である。

 

議会政治への模索を図った第二インターの主導権を握ったマルクス主義者は、反議会の暴力主義路線のバクーニンの後継者たちを排除し、一方、排除されたバクーニンの後継者たちは、第一インターでの多数派だったという自己認識からマルクス主義者という政治屋たちのインターとは異なる革命的なインターを形成したのだった(所謂「黒色インター」)。(千坂,2009,p.103)

 


まず、この文章の一番目の主語は「第二インターの主導権を握ったマルクス主義者」である。これの時間軸は、ぱっと見第二インター時の話をしているように読めるが、まだ第二インターの時の話ではないようにも読むことは可能である(そしてそちらの可能性であることが後述するように分かる)。

次に、上述の主語に対応する述語の部分が「反議会の暴力主義路線のバクーニン主義者の後継者たちを排除し」である。これは、たしかに第一インター、ハーグ大会の時の話に読める。しかし、そうでないときの話にも読めなくはない(後述するようにそう読むのが正しい読み方である)。

一方で接続される二番目の主語は「排除されたバクーニンの後継者たちは」である。これも、第一インター、ハーグ大会の時の話にも、第二インターの時に排除された話にも読める

続く二番目の主語に対応する述語が「第一インターでの多数派だったという自己認識からマルクス主義者という政治屋たちのインターとは異なる革命的なインターを形成したのだった(所謂「黒色インター」)」である。ここで明確に、黒色インターの成立が宣言される。そして、黒色インターの成立は、フォスター(と誤読していたウドコック)の記述を信じるならば、1882年である

つまり、この文章は、第一インター解散(1876年)後、第二インター設立(1889年)前の時期の話をしていたのであった。この事実を元に、千坂論文を、補足を入れつつ再度確認すると、以下のようになる。

 

第一インター解散後)議会政治への模索を図った(のちに)第二インターの主導権を握った(握ることになる)マルクス主義者は、マルクス主義者たちの運動圏から)反議会の暴力主義路線のバクーニンの後継者たちを排除し、一方、排除されたバクーニンの後継者たちは、(当時)第一インターでの多数派だったという自己認識からマルクス主義者という政治屋たちのインターとは異なる(サン・ティミエ大会を開いたバクーニン派の第一インターの運動を、終わりかけていたがなんとかまとめあげる形で)革命的なインターを形成したのだった(所謂「黒色インター」)。(千坂,2009,p.103)

 


あまりリーダーフレンドリーな文章とは言えないが、歴史を丹念に追っていくことでなんとなくの理解が可能になった。

以上が、小一時間かけて考え、時には人に質問し、得た結論である。

 

感想

そんなこと考えてる暇があったら卒論を書けばいいのに。

 


参考文献

ウドコック、ジョージ『アナキズムⅠ』(思想篇)白井厚訳、紀伊國屋書店、1968年

左近毅ほか訳『バクーニン著作集 1』白水社、1973年

千坂恭二バクーニンクロポトキン アナキズムマルクス主義者の対立史観の由来について」『情況』、情況出版、2009年5月号、pp.94-105

フォスター、ウィリアム『国際社会主義運動史 上巻』長洲一二・田島昌夫訳、大月書店、1956年